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粟津駅タイトル 大津線の全27駅を毎月ご紹介するコーナーです。観光・まちあるきスポットや、沿線のおいしいお店、ステーション・スタッフおすすめのスポットも紹介します。皆様からの情報もお待ちしています!
第24回: 石山坂本線 中ノ庄駅
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第23回: 石山坂本線 唐橋前駅
第22回: 石山坂本線 皇子山駅
第21回: 石山坂本線 松ノ馬場駅
第20回: 石山坂本線 粟津駅
第19回: 石山坂本線 京阪膳所駅

第18回: 京津線 上栄町駅

第17回: 石山坂本線 京阪石山駅

第16回: 石山坂本線 別所駅
第15回: 石山坂本線 瓦ヶ浜駅
第14回: 石山坂本線 島ノ関駅
第13回: 石山坂本線 錦駅
第12回: 京津線 大谷駅
第11回: 石山坂本線 滋賀里駅
第10回: 石山坂本線 坂本駅
第9回: 石山坂本線 近江神宮前駅
第8回: 京津線 四宮駅
第7回: 石山坂本線 石場駅
第6回: 石山坂本線 穴太駅
第5回: 石山坂本線 京阪石山駅
第4回: 京津線 追分駅
第3回: 石山坂本線 南滋賀駅
第2回: 石山坂本線 石山寺駅
第1回: 京津線 京阪山科駅
所在地 大津市別保1-7-6
京阪石山へ0.8km / 瓦ヶ浜へ0.8km / 石山寺へ2.4km / 坂本へ11.7km
開業 1913(大正2)年5月1日
乗降客数 1327人/日(2003年11月調べ)
バリアフリー
スロープスロープ
近隣施設
公園景勝地粟津の晴嵐
ホテルNEC晴嵐会館

「別保駅」の謎

粟津駅
典型的な石山坂本線の駅の体裁をとる粟津駅。
が開業したのは1913(大正2)年の5月1日。大津(現・浜大津)−膳所(現・膳所本町)間の石山坂本線の第1期開業のわずか2ヶ月後のことでした。当時の駅名は「別保(べっぽ)」。石山に線路が延びる翌年の1月12日までは別保駅が大津電車軌道の最南端。同時に開業した瓦ヶ浜・中ノ庄と較べると、ホームが千鳥式配置になっておらず、対向式ホームと、構内踏切を渡った片側に駅舎がある、典型的な「石山坂本線の駅」ですが、ホームの幅がちょっとだけ広いのは、わずかな期間でも「終着駅」だった名残でしょうか。

なお、同名の「粟津」駅は、石川県小松市のJR北陸本線にもあります。こちらの粟津駅からは、1914(大正3)年から「粟津軌道」が分岐し、のち「温泉電軌」に、さらに北陸鉄道に営業譲渡され「粟津線」となりましたが、1962(昭和37)年に廃止されています。大津電車軌道の粟津駅が「別保駅」として開業した理由は、案外国鉄に遠慮したのが真相かもしれません。

所在地は現在も「大津市別保」ですが、観光需要を当て込んでか、別保駅は「粟津」と改称され、現在に至っています。改称されたのは大津電車軌道時代のことと思われますが、その後の琵琶湖鉄道汽船への合併、京阪電車や京阪神急行電鉄としての合併や離合の過程を経て資料が失われてしまい、はっきりとした記録は残っていません。

粟津の晴嵐、近江八景

「観光需要を当て込んで」と上述しましたが、「粟津」の名前が有名な理由は二つあります。まずは近江八景の一つ「粟津の晴嵐」。ここでは、まず近江八景のルーツをお話しましょう。

滋賀県と姉妹都市提携を結んでいる中国南部・湖南省。その省都・長沙から北へ2時間ほどの場所にある中国第二の淡水湖、洞庭湖からは2本の川、「瀟水(しょうすい)」「湘水(しょうすい)」が流れ出ています。宋代に、この名勝に季節や時間を掛けあわせ、八つの風景を画材にした「瀟湘八景」が成立しました。この八景が「落雁・帰帆・晴嵐・暮雪・秋月・夜雨・晩鐘・夕照」です。

日宋貿易を行ったのは平清盛ですが、この頃の文化が日本に移入されたのは明代、日本では室町時代のことで、禅宗寺院を中心に水墨画や詩文が盛んになりました。雪舟(1420-1506)や足利義政(1436-90)が活躍し、枯山水庭園に象徴されるいわゆる「東山文化」の時代です。

実際の洞庭湖を描きつつも、そこに普遍的な「時間」の概念を持ち込んだことが瀟湘八景の面白さでした。それならばと1500(明應9)年に近江に滞在した関白・近衛政家がびわ湖の風景を洞庭湖になぞらえて「近江八景」を詠んだのです。

堅田落雁 峯あまた越えて越路にまず近き堅田になびき落つる雁がね
矢橋帰帆 真帆ひきて八橋に帰る船は今打出の浜をあとの追風
粟津晴嵐 雲はらふ嵐につれて百船も千船も浪の粟津に寄する
比良暮雪 雪ふるる比良の高嶺の夕暮れは花の盛りにすぐる春かな 
石山秋月 石山や鳰の海てる月かげは明石も須磨もほかならぬ哉
唐崎夜雨 夜の雨に音をゆづりて夕風をよそにそだてる唐崎の松
三井晩鐘 思ふその暁ちぎるはじめとぞまずきく三井の入あひの声
瀬田夕照 露時雨もる山遠く過ぎきつつ夕日のわたる勢多の長橋

この後、日本各地で「八景」が考察されることになります。たとえば、横浜市の京浜急行電鉄には「金沢八景」駅もありますが、これは三浦半島周辺の名シーンを瀟湘八景になぞらえたものです。
日本全国の「八景」の元祖にして元祖・観光地とでも呼ぶべき近江八景ですが、その存在が一躍有名になったのが歌川廣重(1797-1858)が描いた風景画です。名高い「東海道五十三次」の直後に描かれた「近江八景」は大津市歴史博物館に所蔵されています。湖都古都・おおつ1dayきっぷの特典もありますのでどうぞごらんになってください。

ところで「粟津の『晴嵐』」とは何のことでしょう?『岩波国語辞典』によると「晴れた日に山に立つ気。晴れた日の霞」とあります。「粟津の晴嵐」は、駅から5分。びわ湖沿い、旧東海道の松並木の景色を指します。晴れた日に松の葉がこすれあって出る音が嵐のように聞こえることを「晴嵐」とする、との話もあります。
もちろん今では道路は舗装され、釣人や散歩を愉しむ人を見かけます。この道は膳所公園まで続いており、晴れた日のお散歩にもおすすめです。先人たちの味わった近江八景を思いながら歩くのも一興ですね。

馬場車庫跡地
馬場車庫はこの附近にありました。

粟津の戦いと今井兼平

前回の京阪膳所駅の項で、木曽義仲や芭蕉が眠る「義仲寺」について話しました。1184(寿永3)年、宇治川で源範頼・義経連合軍に追い立てられた木曽義仲は大津方面に逃げのびるものの、粟津が原で討たれてしまいます。ときに義仲31歳。これが「粟津」が有名なもう一つの理由です。
ところで、粟津駅から南に8分程度の盛越川沿いに「木曽四天王」の一人と名高い今井四郎兼平(1152?-84)のお墓があります。義仲の乳兄弟でもある兼平は最期まで木曽義仲の忠臣として活躍しました。

『平家物語』の「木曽殿最期」の段では、粟津に散る二人の様子が悲しくも美しい名調子で描かれています。
残すところ兼平とたった二騎となってしまい、「今日に限って鎧がやけに重い」と思わず弱音を吐いた義仲を兼平が励まします。「殿も馬もまだ疲れてはいないのに何を臆病なことを。この兼平は一騎ですが千騎とお思いください。残った7、8本の矢で敵を防ぎます。あれに見える『粟津の松原』でご自害なさいませ」と云う兼平に、「ここまで逃げてきたのはお前と一緒に死ぬためだ」と応える義仲。その義仲を押しとどめた今井兼平は、「武士たるもの、どれほどの高名を築いたところで最期に不覚をとれば末代までの恥。つまらない者に討たれ『あの木曽殿をそれがしの郎党が討った』などと名乗られることほど悔しいことはない。ただあの松原へ」と説得します。

兼平と別れた木曽義仲は松原の中へと馬を走らせますが、冬の夕暮れ時で薄氷が張っていたために、知らずに深い田に馬ごとはまってしまいます。馬はもちろんびくともしません。ふと兼平の様子が気になって振り返ったところ、額を矢で射抜かれ重傷を負い、そのまま石田次郎為久と云う者に首を取られてしまいました。
ひとり奮戦を続けていた今井兼平ですが、その勝ち名乗りを聞いて絶望します。「もはや誰を守って戦う理由もない。東国の武士たちよ、よく見ておくがよい。日本一の剛の者が自害する手本を」と叫ぶが早いか、刀をくわえて馬から逆さまに飛び落ち、壮絶な最期を遂げるのでした。

今井兼平を祀る塚は木曽の川中島にもありますが、このお墓は今井家の末裔によって建てられたもので、勇壮にして見事な最期を遂げた忠臣・今井兼平には800年を経た現在も花を手向ける人がたえません。

粟津駅入口
住宅街となった粟津の地にひっそりと佇む粟津駅。
びわ湖の水を利用した工場が多く、製造業に従事する人の割合が日本一高い滋賀県。ここ粟津もNEC関西の城下町となり、工業団地もありますが、その昔は日本の歴史を変える激しい戦いが繰り広げられた地でもありました。
今井兼平の墓
粟津原合戦の顕彰碑
鎮魂碑
今井兼平の墓、粟津の戦いの鎮魂碑や顕彰碑。今井兼平の最期は、今も日本人の心をとらえて放しません。

粟津駅について語る
「粟津の晴嵐はちょっとした散歩スポットです」
運輸課 大津列車区 助役
西田陽一

−粟津にお住まいだったんですか?

な〜んにもないところでしたねぇ。昔は御殿が浜云うのがあり、水泳場やったんでしょうね。「粟津の晴嵐」とかで有名でしたけど…。NECの女子寮なんかあってねえ、一番電車から粟津駅で待ってはったり。団地の子供なんかもいましたけど、今は両方ないので、ひっそりしてましたねぇ。お風呂屋さんとかスーパーとかあったんですけど、すっかり無くなってねえ。
僕が行ってた粟津中学も、14クラスあったのが今は4クラスしかないんでね…すっかり寂しくなってます。

−見事に少子化を実感させる現象ですね。

運輸課 大津列車区 助役 西田陽一
「昔から何もない駅でしたけど、住みやすかったですね」
少子化はすごいですね、実感しますね。僕は誕生日が3月の後半なんで、1982(昭和57)年3月15日に17歳で入社して、駅員半年、車掌3年、運転士を17年やってますが、昔は学生さんの数も多かった。膳所なんかで積み残して電車に乗れんと…。何もかも変わってますね。
クラブ一つとっても、今のクラブは早よ終わるし。僕らもバスケットやってました。練習中に水飲むのは禁止、と今思うと考えられへんよなことしてましたけどね(笑)。

−粟津と云うと、商圏でも膳所エリアと石山エリアとの分岐点という感じなんでしょうか。

石山エリアでしょうか、JRの石山まで歩いても10分くらいなんでねえ。晴嵐学区と膳所学区も粟津の駅の道で分かれてます。

−「晴嵐学区」なんですか。近江八景の一つですね。

晴れているなぁと思っていると途端に嵐のような風が吹いたりするけど、それが通り過ぎるとカラッと晴れ渡ってくる。この風情が粟津あたりが松林によく似合うという意味だそうです。滋賀県は美しいとこですけどね。松林やないですけど、今でも湖岸道路沿いに松がいくつか生えているんです。その松林が近江八景にも歌われている。それが晴嵐云うんやろか。
他にも、湖底遺跡が発見されたらしいですけど…見る訳にもいきませんしね(笑)。

−びわ湖までは近いんですか?

5分くらい。湖岸でも、ボテ云うて、タナゴがたくさんいますし、僕らも行ったけれども…。ブラックバス釣りにええスポットやとか、よく聞くんやけど、粟津からはなかなか来いひん。膳所公園から船を借りてくみたい。もっと、電車に乗って粟津に行かはる人がいたらエエのにね。
遊歩道が整備されていて、松林がぽつぽつと。ちょっとした散歩スポットになるかもしれませんね。クリスマス近くになると、対岸のロイヤルオークホテルのイルミネーションがきれいで。近江大橋が見渡せますし。21世紀の「粟津の晴嵐」かな?

−石山の工業地帯に近いですが、企業はあるんでしょうか?

日本電気硝子のお膝元ですね。NEC云うと、どちらかと云うと石山なんでね…ホンマ、何もないところですねえ。たまに黒い服を着て「マリアージュ玉姫殿」云うところに行かはる人が引出物持って。
あっ、「晴嵐会館」云うのが駅前にあります。NECが経営してはるんでしょうけど、一般のお客さまもOK。ウチも法事で使ったことがあって、コンパニオンの手配をしてくれたりもするし、会社の宴会や、何かで使うのなら穴場かも分かりませんね。宿泊もできますし。

−なるほど。お食事をするところは?

駅の裏に、「粟津屋」云う食堂が僕らが子供の時からあって、安いイメージがあります。「齋藤」云うお好み焼き屋さんも僕ら小さいときからある。結構安い値段で食べさせてくれるらしいですけどね、同級生の店なんですけど。近所すぎてよく知ってるんで、行きにくいところもあるんで…(笑)。

−いわゆる「閑静な住宅街」なんでしょうか。

最近新しい住宅が何軒か建ったし、それでお客さまが増えてくれはったらエエんやけどな。昔は田んぼなんかが電車道沿いにありましたけど、今は駐車場や家になってめっきり減りましたわ。住みやすいところではありましたね。お年寄りが多いです。市営住宅とか、新婚さんとか、収入の多い人は入れてくれないでしょ? どうしても高齢者中心になってくるんでしょうね。実際、粟津の駅も昔は階段しかなかったですけど、今はスロープもできて、高齢者にやさしい駅になったと思います。
学校が休みの日曜日でしたら、ホンマに乗り降りする人も少ないですし…。ちょっと前まで、お花を飾ってくれはる人がいらしたんですけど、最近見いひん。ただ、粟津中の生徒が絵か何か飾ってます。駅が明るくなってエエですね。

−そうですね。石山坂本線の一つの名物になってきていると思います。粟津の戦いの舞台ですが、今井兼平のお墓が近いんでしょうか。

実際、粟津ヶ原云うのは今の粟津を指すのかは分かりませんけどね。「義経」を見たら、ご期待に添えるかどうかは分かりませんけど、ぜひ一度お立ち寄りいただきたいと思います。
今井兼平のお墓も駅長ウォークのコースで寄りはしましたけど、どちらかというと石山駅の方が近いですね。石山駅ではお客さまが「どう行ったらエエんですか」と聞かはりますからね。

−駅長ウォークはいかがでしたでしょうか。前回はずいぶんタフなコースだったようですが…。

今の駅長も先代の駅長もウォーキングが趣味みたいな人で、ああなった(笑)。天気もよく、距離も長かったんで、歩くだけの価値はありました。6月云うので心配したんですけど、天気にも恵まれて…。湖岸沿いは風があったんで、思てたよりもさわやかでしたし。
大阪とか西宮から来てくれはったり、「次回のパンフレットちょうだい」とか云うてくれはって、ありがたいことやなあ、と…。速い人は休みナシでずっと歩かはって、ウチのスタッフの先頭チームはたいがいえらかったようですけどね(笑)。私は最終をゴミ拾いながら歩いていたんですけど、そう遅い方もいらっしゃらず、自分のペースで歩けたんで、ホンマに好きな人が来てはるんやな、云う感じですね。

−駅長推薦ウォークはずいぶん定着してきたようですね。

いろんなところから新しい案とかも出てきて、エエ方向になればいいなあ、と思てますけどね。「ぷちらま」を売ったときもあまりの列にびっくりしましたし、いろいろ始めていることが実を結んできていますね。結果が出るとやってても面白いしね、「もっとやろ」云うよな意欲にもつながるしね。
これを継続していくのも大変ですけど、いい知恵をどんどん出してやってかんと、私らやっぱり、沿線に住んでるモンにとっては、単なる「働く場」云う問題でなくて、電車がなくなるとなれば、他の会社にいようとも、大変なことなんでね。

−助役になって日が浅いと云うことですが、お仕事はいかがでしょうか?

楽しいですよ。運転士は運転士でエエけど、助役の仕事も奥が深いです。まだまだヒヨッコなんで、勉強もしてかなアカンのですけど…。

浜大津駅に立つ西田
「助役の仕事も奥が深く、責任があって楽しいですね」
新しい運転士も出てきたり、新しいスタッフも入ってきたりして、職場は明るくなりましたね。大津の変革期に「助役」として指導できる立場になり、今までの助役が経験していないようなことを経験させてもろてる思いますね。こちらが勉強させられることも多いです。教えることほど勉強になることもないですからね。やりがいのある、あらゆる意味でやりがいのある職場になってきたな、云う実感があります。

−いいですね。これからはどんなテーマを考えていますか?

石山坂本線は盛り上がってきてますけど、こちらがある程度軌道に乗ったら、次は京津線を盛り上げたいですね。四宮で精算業務をすると、京津線の売上が出てくるんです。古い日報と較べてみると、1/3以下になってます。地下鉄との乗り入れで京都市内行くのに運賃が以前よりも高くなった云うのがネックになってると思うけど、その他でどんだけがんばれるかと云うことでしょうね。

−本当に、京津線も盛り上げたいですね。

サンダル代わりにぜひ利用していただきたいと思います。どうしたらより一層よくなるのか、意見を持っていはる人がいたらぜひ教えていただきたいですね。新聞報道なんかで一時は「廃線か?」って云う声もありましたが、それ以降何とかがんばってと云うお客さまの気持ちも伝わってきます。無人駅の集札箱に切符を回収しに行く時、声をかけられました。「ツブれたらかなわんから、私らいつも、絶対にただ乗りせえへんからなあ」って。ホンマありがたいし、その人たちのためにも頑張らなアカンと…責任を感じてますね。

一見平凡でありながら、歴史を秘めた粟津。keihan-o2.comでは、そんな粟津のような街の魅力をお伝えしていきます。「これまでの助役が経験していないようなことを経験させてもろてる」と語る西田たち助役も知恵を絞っています。

次回は石山坂本線・松ノ馬場駅からお届けします。どうぞご期待ください。


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