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タイトルと603号 京阪電車はかつてから日本初の技術を多く導入し、50種類以上にも及ぶ台車をはきこなすなど、「進取の気象」「技術の京阪」の名をほしいままにしてきました。

大津線も例外ではありません。わずか21.6kmに連続する急勾配、急曲線、路面区間…。日本屈指の厳しい線路条件を克服し、安全で快適なお出かけを約束する大津線電車こそ、小さなボディに個性と高性能を秘めているのです。

このコーナーでは、大津線で活躍する電車や施設について、やさしく、そしてちょっとマニアックに(担当者が好きだからです…)おとどけします。

第11回: 京津線 800系電車(3)
第10回: 京津線 800系電車(2)
第9回: 京津線 800系電車(1)
第8回: 石山坂本線 700形電車(4)
第7回: 石山坂本線 700形電車(3)
第6回: 石山坂本線 700形電車(2)
第5回: 石山坂本線 700形電車(1)
第4回: 石山坂本線 600形電車(4)
第3回: 石山坂本線 600形電車(3)
第2回: 石山坂本線 600形電車(2)
第1回: 石山坂本線 600形電車(1)

平面ガラスの1次車たち

 600形は現在、2両×10編成=20両が活躍しています。そのうち、20年前の1984(昭和59)年にデビューしたのは、現在正面に平面ガラスを使た1次車の8両(601〜608)です。600形はその後順調に増備を重ねていきますが、609号以降の車両はすべて260形の代替新造車です。そこで今回は、600形1次車の特徴と、1次車の前身である300形(II)の歴史についてお話ししましょう。

出揃った600形1次車

 1984(昭和59)年4月に登場した大津線初の冷房車・600形は大好評で迎えられ、さっそく量産体制に入りました。601-602号が完成したのが4月16日。7月20日には603-604号、8月1日には605-606号が落成し、この夏の京津線準急における冷房車は3本になりました。607-608号が完成したのは10月22日。これでひとまず1次車が出揃いました。この時点で600形は4本8両となり、3本6両と小所帯の500形は京津線ほどのシビアな性能は要求されない石山坂本線に入ることも多くなりました。

 翌1985(昭和60)年には600形の増備こそ行われていませんが、607-608号が投入されたことにより冷房化はわずかながら進展しました。また、この年には定速運転装置(自動車のクルーズコントロールに相当)に「25km/h」が追加されました。それまでは30km/hから60km/hまで、5km/h刻みの7段だったのですが、さらにきめ細かく速度制御ができるようになり、特に発進・停車時の乗り心地がスムーズになりました。

あじさいと604
坂本に向かう604号車を、線路端のあじさいが見送ります。603-604の竣工日は7月20日ですから、今月で二十歳ですね。

1次車の特徴

 いちばんわかりやすいのは、正面の窓に平面ガラスが用いられていることです。これだけで十分ですが、もうひとつ面白いのは連結部分の屋根です。雨樋が露出しており、黒い帽子をかぶったような形をしているため、ここだけ若干古めかしい印象を受けます。昔の京阪電車は、側面では高い位置にあった雨樋が正面では少し垂れ下がるデザインが特徴であり、これは京阪線に残る1900系電車の一部の中間車に見ることもできます。また、ドアと戸袋窓の間にある間柱は320mmの幅です。これらの特徴は1次車が300形(II)の車体を利用しているからです。

 300形(II)は301〜308の2両×4編成。すべて600形に代替・車体流用されて廃車、1984(昭和59)年に一気に姿を消してしまいました。それでは、この300形(II)とはどのような車両だったのでしょうか。

603号正面603号連結面正面ガラスが平面なのと、ちょっと古めかしい連結面の屋根が1次車の特徴です。

300形(II)の生涯

 300形(II)が在籍した期間は、1965(昭和40)年から1984(昭和59)年までの19年間。つまり、もう300形(II)としてよりも600形としての活躍の方が長いことになりますね。
 1965(昭和40)年当時は、1957(昭和32)年の260形登場に始まる、一連の大津線車両近代化の真っ最中でした。300形(II)は京津線急行のために登場した車両です。停車駅は、三条を出ると御陵・京阪山科・四宮・上栄町・浜大津で、石山寺へと直通していました(石坂線内各駅停車)。この急行はのち御陵から浜大津まで各駅に停車する準急へと置き換えられます。

 260形が木造車(含む半鋼製車)200形の機器を流用した更新であるのに対し、300形(II)は木造車300形(I)の機器を流用しています。車体は、両開き扉・片運転台の260形3次車の流れを汲んでいますが、ヘッドライトはシールドビーム2灯式となったほか、側面の雨樋の位置が変更されてスマートになっています。
 足回りは、260形のモーター出力は45kwだったのに対し、58kwと強力型になり、SMEブレーキと相まって安定した性能を供給。台車は301〜304号は米国ブリル社製のMCB-2、1967(昭和42)年に増備された305〜308号がその改良型であるMCB-2Xをはき、1970(昭和45)年にはパンタグラフ化されて、急行電車のエースとして活躍しました。

さようなら300形。S59.7.26.
さようなら300形。20年前の7月26日、301-302号が607-608号へと生まれ変わるために入場します(書類上は607-608号竣工日である10月22日に廃車)。男たちは万感の思いで友を見送ります。
 登場当時は京阪線特急色に塗られていましたが、1979(昭和54)年の500形の登場に伴って一般色へと改められ、そのわずか数年後に600形へと生まれ変わることになります。
距ホの302号
最晩年、緑色になってから三井寺付近の路上を行く300形302号。
赤の305号
特急色がよく似合っていた300形305号。錦織車庫にて。

600形について語る(2)
「いろいろな電車を運転させてもらえて幸せでした」
運輸課 スタッフリーダー
田村一雄
-300形を運転された経験のある方ということで登場していただきましたが、それまでに歩まれた道のりを教えてください。

 大津線で採用され、1977(昭和52)年3月に入社、5月に駅務係に任命されました。三条の放送を担当していましたが、そのころは自動放送はありませんでした。それから、旧・三条駅では、正面改札に京阪線の0〜5番のりば、京津線の6・7番のりばの発車案内表示が並んでいました。たしか字幕式ですが、これも手動で変えてました。それからは四宮と京阪山科で改札勤務。
 昭和55(1980)年に錦織列車区で車掌に任命されて4年ほど、そして昭和58(1983)年に運転士になりました。

−300形にとっては本当に晩年ですね。

 はい、それでもまだ301号から308号まで、全車が健在でした。260形に較べて主電動機の出力が高かったから、よう走る電車や、というイメージがありました。その頃は260形、350形の運転台の前のガラスは防眩化されてへんかったんで、300形や80形は見通しが良かったですね。

 ええことばかりではなく、300形はブレーキが甘かったんですよ。特に307・308がね。当時は特に三条に乗り入れてましたさかいに、京阪山科では、三条行きは高速で駅に入ります。通常より10%増し、ないしは車内のお客さまの状態によって20%増しでブレーキをかけていました。
 他に難しかったのは、京都行きの四宮ですね。中線がありますやろ。せやから曲線ですし、それに加えて下り勾配ですから、基本の一段制動で停めるのは苦労しましたね。京津線はブレーキが難しいんです。
 車両では他にブレーキが甘いのは260形の、261から268。これらは塗油器が付いていましてね、基本制動法で停めるのに苦労しました。今の電車でも、同じ設計図のもと、同じ部品を使っているのにもかかわらずクルマによって癖があったりしますよ。

−300形から600形への過渡期。どういう思い出がありますか?

運輸課スタッフリーダー 田村一雄
「震災の時にも、頑張っていつも通りに電車を走らせることで、少しでもお客さまの不安を和らげたい、慰めたい、と」
 600形の新造工事中に、当時1両だけ半端車で残っていたと350形351号と、まるで性能が違う300形との混成を、石坂線オンリーで運転したこともあります。技術的なことはよくわからないので、ようあんな混成で…車両係も上手いことやったんやろな…と思いますね。

 それまではエアーのSMEだけで停めていたのに、600形は回生常用なので、正直なところ停めやすかったです。ノッチ戻しをすればかなりのところまで落ちてくれます。そこでSMEの空気制動に変えるさかいに、運転士の仕事からするとちょっと寂しい、つまらん、というのはありました。
 もうひとつは、大津線初の冷房車やったので、嬉しいな、というのがありました。これはお客さまも同じでしょうけどね。

 当初600形は京津線専用やったので、石坂線に入ることはありませんでしたけど、何年か後に入るようになりました。当初は回生電力の吸収装置がありませんでしたので、頻繁に回生失効して、各駅に停めるのに苦労した経験があります。その後600形も増備されて、石坂線での運転も多くなり、電力吸収装置ができてから安定したブレーキができるようになりました。

−その時は500形も走っていましたね。

 はい、500形も600形とはちょっと違うんですけど、7段の停止ノッチになっていまして、600形と同じく電気ブレーキを使うので案外運転しやすい電車でした。よく走る電車やったよ。錦織列車区も、京津線の準急はよく担当していましたが、500形はよく走るので、遅延回復もしやすかったです。

 その時代は、三条方面へは35km/hで走れば青信号がとぎれないようになっていたんです。これをスムーズに走るのが運転士の腕の見せ所でしたね。
 他にも、三条から大津に行くときに、三条でぱっと乗らはったお客さまが、この運転士やったら山科から国鉄に乗れる、とか乗れへん、とか云わはるわけですわ。これは当時の大津線運転士の技術意識の持ち方ですが、きちっと制限を守るのが腕やという運転士と、一分でも二分でもダイヤを回復するのが腕や、という運転士とがおったからです。

 その後、1996(平成8)年に指導運転士になりました。このときは最初1ヶ月は石坂線、残り2ヶ月を京津線で教えると云うことだったので、事前に四宮に出かけていき、通常は担当しない80形を一人で練習したことがあります。普段受け持たへんだけに苦労した思い出ですワ。
 私は錦織列車区の所属やったので、80形を担当することはなかったんですよ。私自身の研修中はもちろん、指導員と一緒に四宮列車区に行って、向こうで80形を習いましたが。

 さらに、800系の指導運転士に任命されまして、地下鉄への乗り入れ開業前の近江神宮ー穴太間で、800系の夜間試運転で運転士をやりました。夜に仕事をして、昼間は家で仮眠をとるという昼夜逆転生活。御陵開口部の折り返し線で、地下鉄東西線ダイヤの試運転も担当させてもらっていました。当時は800系が醍醐車庫に留置されていて、醍醐車庫から出庫して地下線内を試運転してました。まだ開業前の地下線内の運転もやりました。

 1998(平成10)年に助役になり、ハンドルを置きましたが、SMEの旧型車から500形、600形,HRDに変わった700形、そして最新の800系まで15年間運転士をさせてもらい、いろいろな電車に乗せてもらえて幸せでした。

−今のお仕事はどんな内容なのでしょうか?

 助役になってからは、はじめは四宮の乗務助役を1年、精算所の助役を2年、それから浜大津の助役を1年。2年前から事務所勤務、運転関係と、営業関係、統計、社内的な達示関係の統括をしています。昔はそれぞれに専門がいたんですが、現状は厳しく、課長補佐と私の二人で一人二役、三役、四役とやってます。

 あとは800系の行先表示を作ったりしています。だいたい5年くらいでICカードの寿命がきますので、そのたびに中身を書き換えなあかんのです。ICカードにもいろいろな情報を入力しなくてはいけないので、走行時分や停車時分を入れておいて、そのようなものが全部出てくるシステムを作っています。これは、ハードディスクの中に入れておいてコピーなどはできないのですが、ダイヤ改正前にそのデータ書き換え用のパソコンが壊れてしまい、泡を食ったこともありましたわ。

−大津線一筋で過ごしてこられたんですね。

 実は、私は京阪電車に勤めて三代目なんです。祖父と、親父と、私と、みんな京阪電車に勤めて飯を食ってきた。子供の頃から京阪電車に勤めるんやろな、となんとなく思てました。鉄道一家で、弟はJRで新幹線の運転士をやっています。ウチの子供は女の子ばっかりなので四代続けて京阪電車、ということはなさそうですが…。

 大津線から本線に行かへんか、という打診があったこともありますが、もうずっとお世話になっている大津線への愛着は人一倍強く、大津に残らせてもらいました。一時期に較べて大分お客さまは減ってしまいましたが、この短い路線をずっと残していかなあかん、と思てます。その意識を強く持ったのが、あの阪神大震災です…。

−…震災ですか…。

 …はい、地震が来た1995(平成7)年1月17日5時46分、私は石山寺駅から始発電車を発車させたばかりのところで、まさにポイントを渡ろうとしていました。尋常ではない揺れがあり、何が起こったかはわからなかったのですが、反射的に電車を急停車させていました。見ると、山側の架線柱からなにからわんわんわんわん揺れている。脂汗が出てきました。
 もしポイントにさしかかっていたら…と思うとぞっとします。今でも夢に見ます。

 不幸中の幸いで、京阪電車の被害はほとんどありませんでした。けど、並行するJRは神戸の影響でもちろん止まってしまいました。その日は、夜中まで京阪電車は超満員で、不安な表情をしたお客さまを一生懸命運び続けました。もちろん現場も不安だらけやったんですが、頑張っていつも通りに電車を走らせることで、少しでもお客さまの不安を和らげたい、慰めたい、という気持ちがありました。

 そのときに思いました。確かに京阪電車は距離は短いですわ。せやけど、距離が短いからこそ、こういう不測の事態が起こったときにバックアップできるんや、これが短いものの強さやって。震災そのものは本当に大変な、そして不幸な出来事でしたが、逆に自分たちが普段取り組んでいる仕事に対して、使命感と誇りを新たにするきっかけになりました。

 ですから、私らが愛するこの短い路線をずっと残していくためにも、もう一頑張りせなあかん、と思っているんですよ。読者の皆さんも京阪電車にぜひお乗りになってください。

(6月16日、浜大津事務所にて)

 三代に渡って培われてきた京阪電車への深い愛情と、豊かな経験。その田村が改めて輸送の使命に目覚めたという阪神・淡路大震災。
 田村の熱い魂を引き継いだ若い運転士は、今日も新たな気持ちに白手袋をはめ、20歳を迎えた600形電車のハンドルを握っています。

次回も600形電車特集をお届けします。


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