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o2trainsタイトル 京阪電車はかつてから日本初の技術を多く導入し、50種類以上にも及ぶ台車をはきこなすなど、「進取の気象」「技術の京阪」の名をほしいままにしてきました。

大津線も例外ではありません。わずか21.6kmに連続する急勾配、急曲線、路面区間…。日本屈指の厳しい線路条件を克服し、安全で快適なお出かけを約束する大津線電車こそ、小さなボディに個性と高性能を秘めているのです。

このコーナーでは、大津線で活躍する電車や施設について、やさしく、そしてちょっとマニアックに(担当者が好きだからです…)おとどけします。

第11回:京津線 800系電車(3)
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第10回: 京津線 800系電車(2)
第9回: 京津線 800系電車(1)
第8回: 石山坂本線 700形電車(4)
第7回: 石山坂本線 700形電車(3)
第6回: 石山坂本線 700形電車(2)
第5回: 石山坂本線 700形電車(1)
第4回: 石山坂本線 600形電車(4)
第3回: 石山坂本線 600形電車(3)
第2回: 石山坂本線 600形電車(2)
第1回: 石山坂本線 600形電車(1)

進む京津線準急の冷房化

 4回にわたって連載してきた600形の特集もひとまず最終回です。

 大津線初の冷房車・600形は好評を集め、1984(昭和59)年4月に601号-602号の1本が、夏真っ盛りの7月20日に603号-604号、8月1日に605号-606号が登場、2連3本の陣容となり、京津線準急の座を同数の500形2連3本と分け合いました。

 夏には間に合いませんでしたが、607号-608号が10月22日に登場して300形(II)を一気に置き換え、1985(昭和60)年の夏は冷房車4本がフル稼働してサービスアップに貢献しました。機構面では、定則制御装置に25km/hが追加され、特に路面区間での運転が一層しやすくなったのも、前々回にお話ししたとおりです。この時点で260形はもとより、500形も石坂線に入ることが多くなりました。

600形2次車登場

 300形(II)の置き換えは完了しましたが、京津線準急の冷房化を促進してゆくために、非冷房かつ旧性能のまま残る260形を代替してゆくことになりました。260形は木造車200形の機器流用車で、1957(昭和32)年から1968(昭和43)年の実に11年間、4次にわたって、少しづつ形を変えながら26両が製造された形式です。

 このうち、281号から286号までの最終の6両は、1979(昭和54)年および1981(昭和56)年に高性能車500形へと改造されており、20両の陣容になっていました。
 残った260形の車体を流用しつつ機器をほぼ新製する手法は、300形(II)から600形1次車を製造したのと同じです。こうして、1986(昭和61)年、600形2次車となる609〜612号の2本4両が落成し、活躍をはじめました。2次車以降は正面窓が曲面ガラス(パノラミックウィンドウ)に変更され、よりスマートになりました。

 このあたりから600形は京津線準急の必要運用本数(朝8本・昼4本・夕6本)をほぼ満たし、石坂線への進出が始まります。さらに翌1987(昭和62)年に3次車の613〜616号が、そのまた翌年の1988(昭和63)年には4次車の617〜620号が完成しました。

坂本(京都)方 種車 石山寺(大津)方 種車 竣工
2次車 609 277 610 278 86.4.22
611 275 612 276 86.7.4
3次車 613 274 614 279 87.4.17
615 269 616 270 87.7.4
4次車 617 271 618 272 88.4.19
619 273 620 268 88.7.4
坂本にて,6102次車運転台

曲面ガラスを装備、視界が改善された600形2次車。

 2次車で前面形状が丸みを帯びましたが、増備を重ねるたびに細かい変更が生じています。1・2次車は二段上昇式の窓でしたが、3次車以降は窓の下段が固定式になりました。これは、冷房化により、あえて窓を全開する必要性が薄れてきたからです。この結果、3次車以降では下段の窓の外側にあった保護棒が廃止されました。

 また、1・2次車ものち1990(平成2)年から1991(平成3)年にかけて下段窓の固定化改造および、保護棒の撤去が行われています。

602試運転

試運転するデビュー当時の602号。保護棒がわかりますか?蹴上にて。

600形の見分け方

 2次車が1次車よりもスマートになった部分は正面だけではありません。連結面(妻面)の部分も1次車では少々古めかしい印象を受けたものが、2次車では丸っこい形状(「丸妻」といいます)へと作り直されています。2次車の種車となったのは両開き扉に片運転台(車両の片側にしか運転台がない)が特徴の260形3次車です。

 さらに、3次車のうち615・616号と、4次車では種車に両開き扉・両運転台(車両の両端に運転台がある)の260形2次車になりました。600形の新造にあたっては、全車2両編成とすることで両運転台は必要なく、定員増加のためにもこれらを片運転台化することになり、車端部をつくり直しています。こちらはストンと切り落としたような形状(「切妻」といいます)となり、結果的に600形には2種類の顔、3種類の妻面形状が混在しています。

1次車 2次車・613-614 3次車・615-616
1次車
2次車、3次車613・614
3次車615・616、4次車
妻面形状の3形態を、写真でごらんください。

 また、車内の窓は現在全車が下段固定・上段上昇式になっていますが、当初は2段上昇式で登場した1・2次車は、下段窓を固定する金具や窓のレールの痕跡があったり、ストッパーの撤去跡があったりするので、簡単に区別がつきます。

 もちろん番号を見たら一発でわかるのですが、こうした細かな改良を続けてくることで、京阪電車ではサービスの改善を図ってまいりました。ローマは一日にして成らず。

 このような改造履歴を知ると、写真を見て、車窓風景だけではなく、改造されたポイントを探すことで撮影された年を推理する楽しみもあるんですよ。

1・2次車の窓
はじめから固定窓の3次車
窓が固定化され、窓のレールやストッパーの痕跡が残る1・2次車(上)と当初から固定窓3・4次車(下)。

20両をもって増備完了

 こうして、1988(昭和63)年に20両の陣容になり、大津線最大の勢力に成長した600形。京津線準急はもとより、石坂線にも進出することで、大津線の冷房化は着実に進んでいました。

 このように、260形26両のうち、6両は500形、12両は600形へと変身しました。
 片開き扉・両運転台を装備した7両の260形1次車(261号-267号)と、両開き扉・片運転台の4次車ながら267号と手を組んだ280号の合計8両は、1997(平成9)年の京津線部分廃止まで260形のまま、主に石坂線で活躍し、その使命を終えました。
 261号・262号が最後にはいた、ボールドウィン社製BW台車は、生まれ故郷・米国にある世界最古にして最大の電車博物館、シーショア・トロリー・ミュージアムへと寄贈され、ただ展示されるだけではなく、現地での保存車両の足回りとして今なお走り続けています。

 1992(平成4)年に600形5次車の再増備が計画されましたが、東西線開業後、大津線全体の架線電圧が600vから1500vへと昇圧されることが決定していたために、昇圧に対応するのと、ブレーキシステムを電気指令式のHRD-1(ハイ・レスポンス・デジタル)へと変更することになり、700形へと形式が変更されました。この結果、600形は正式に20両で打ち止めとなりました。

その後の600形

 その後、1993(平成5)年、600形にも昇圧に対応する改造工事が施されました。同時に、ブレーキシステムがSMEからHRD、車体では標識灯がLEDへと改造されました。制御装置、コンプレッサー、SIVなどの電装機器は改造され、これでいわゆる「下回り」は700形と同一のものになりました。そうした意味ではオリジナルの600形の寿命は最長でも9年間だったことになります。

 そしていよいよ1997(平成9)年、京津線の部分廃止・大津線の1500vへの昇圧ともに、600形は当初の使命だった京津線準急での活躍を終え、働き場所を完全に石山坂本線へと移し、車いすスペースの設置やワンマン運転対応のための小改造などを経ながらも、今日も元気に石山寺-坂本間を往復しています。

613o2仕様

走り装置は700形と同一になった600形は、石山坂本線で活躍中。写真はkeihan-o2.comトレインになった613-614号。

600形が築いたもの

 600形特集をはじめるときに、「1980年代は、冷房化率が鉄道会社のサービスレベルの指標だった」と述べました。旧型車の260形・350形が役目を終えたことで、大津線の完全冷房化・完全回生ブレーキ化が達成されました。
 省エネルギーに大きく貢献する回生ブレーキは今や鉄道車両のスタンダードですが、全車が回生車と云うところは現在も大手私鉄16社の中でも関東の東急・京王の2社のみです。
 実は、世界初の回生ブレーキは戦前の大津線50形に端を発しています。その意味で、大津線は戦前から先進技術が導入される実験線的な性格を持っていましたが、1997(平成9)年にそれが実現したことは、回生ブレーキをお家芸とする大津線の誇りでもあります。

 また、600形は京津線準急および石坂線の冷房化、および高性能化=省エネ化に大きく貢献しました。現在、700形と合わせて、石坂線は2連×15本の陣容となり、昨2003(平成15)年の新ダイヤにおいて、日中の本数倍増と云うサービス向上につなげる布石となりました。

 さらに、「正面新造による運転室面積拡大」「冷房化」「回生ブレーキ化」の更新を3点セットで実施する基本となるなど、大津線のみならず、京阪電車全体にとって大きなマイルストーンとなりました。

 20両の600形電車は、確かに京阪電車全体では地味な存在です。しかし、その中にはしっかりと「進取の気象」「技術の京阪」のスピリットが息づいていることがおわかりになったかと思います。今後も元気に走り続けていくことになるかと思いますので、電車の歴史、電車を支える人たちのことにちょっと思いを至らせながら引き続きご愛乗くださると幸いです。

(連載「誕生20周年・600形電車」おわり)


600形について語る(4)
「これからどんどん懐かしくなるのかな…」
鉄道企画部 係長(資材担当) [前・大津運輸部 技術課 車両係長]
和田信朗
−ずっと大津線の電車を設計したり、お守りしてきたりしたんですよね。

 私は高校が機械科専攻でしたので、機械屋として当時の大津の車両課に入社しました。1964(昭和39)年です。80形がまだまだ新車の頃です。260形が最新型として量産されていました。
 その頃には半鋼製の200形、新旧300形、30形、20形、50形、70形、60形と、10形もありました。10形はもう1両だけやったかな。空気なくっても動くんですよ。阪急から来たのかな、四宮の火災を受けて…。

−生き字引ですね。

そうでもないですけどね。

−600形も設計なさったんですか?

鉄道企画部係長 和田信朗
「突貫工事で作った電車です。苦労しましたけど、ちゃんと走ってくれましたわ」
 屋根構体とか、側窓とか、ドア窓とかのボデーの設計は、寝屋川の車両部が担当して。私ども大津はぎ装(艤装=様々な機器・部品の配置を決めそれを車両に取り付けていくこと)関係ですね。床下機器とか…。私の担当は機械関係。空気関係をどう通して、車内のどこに出すとか、パンタの取付関係とか。

 1979(昭和54)年に260形を改造して500形を作りましたやろ。そろそろ300形をなんとかせなアカンな、どないするか、どないするか、どうも何か作りそうな感じやな、と現場でも云ってましたが、最終的にゴーがかかったのは1983(昭和58)年の秋やった…ところがすぐに1984(昭和59)年の1月から工事がはじまっちゃった。工事にはいるまでの構想時間が無かったんで、正式な配管図なんてまだできてへんのに…(笑)。
 だから、はじまった直後は業者が机の横に来て「どないしますん?」って聞くから「あそことここに3本通しとけ、あとで図面出すから」。
 ぎ装図にしても、先に部品図を書いて、調達だけは何とかして、アタマの中でイメージはあったんで、それをあとでぎ装図に落とすと。午前様の連続でしたね。
 今みたいなあんなきれいな工場とちゃいます。東西線できる前ですからね、汚い暗いところでやってました。最初は、もう最後工事が間に合わないから、昼組と夜組を作っておいて、突貫工事で作りました。この年は工事の時は寒くて…。錦織ではどっかに雪が残っていて。

−1984(昭和59)年の冬! ああ、たしかに寒かったですね。覚えています。

 4月の最初の夜間試運転では雪が降っていました。誘導障害のテストがあったさかい、夜間にやったんかな…。昼間試運転行って、踏切なんかがトラブったらアカン云うことだったんかな…。あとの1997(平成9)年の東西線乗り入れ、1500v昇圧のときはなんで夜間なのかわかりますけどね。
 600形ではじめてSIVが入りましたからね。通信関係に誘導障害が出たらどないしようかな、走らせられないと思て試運転をしました。信号メーカーの某氏が強い権限を持ってるんですよ。「きっちりと回生をかけたりとかを、指示通りやらんと、ダメーッ」と(笑)。とりあえずちゃんと走りましたね。突貫工事の割には。

−それで601・602号が出てきたのが4月17日ですか。よく作りましたね、半年足らずで…。なにしろ、夏に間に合わせなくちゃいけなかったんですね。結局夏までに2本、夏にもう1本あがってきました。

 冷房車やから、5月の連休くらいに天気がよければ暑くなってきますからね。だんだん増えてきて京津線の昼間の時間帯はほぼ冷房車と。4本あれば昼間の準急はほぼいけたんやないかなあ。あの当時、稼ぎの多い京津線に優先的に入れますからね、石坂線のお客さまから「こちらはどうなってるんや」と。
 2次車以降は石坂線にも冷房車を走らせるという計画がありましたね。

−2次車では、特に顔が大きな仕様変更でしたが、あれを決定したのは?

 設計変更の経緯は、運転室に奥行きが出来たのはようなったけど、正面窓と運転座席の間隔も広うなったんですね。そうすると、併用軌道を走るとき、どうも死角がある…前よりも見にくい部分が出てきたっていうことでね。

−路面だからこその特性ですね。

 そんなんで、設計変更は、大津の運転の意見を反映して行われたことになりますね。大津では、饗場(あいば・克也ー和田の先輩の伝説的設計技術者、現在は京阪線所属)と和田の二人で設計をやっていて、一人現場から借りてきてやりました。曲面ガラスやとちょっと視界はゆがみますが、それでも見えへんよりええやろ。

 このガラスをはめるのが難しうて…。ボデーの構体、アルミの窓枠、曲面ガラスをきちっと合わせなアカン。ところがガラスとアルミ、これが合わへん。アルミの窓枠もハンドメイド、ガラスもハンドメイド。ある程度図面で曲線は作ってますけど、どうしても誤差がでます。
 だから、新車作ったときにガラスをはめといて、明くる日来たら応力がかかっていて、ヒビが入っていることがありましたね。床下ぎ装をしていくと荷重がかかるし、バランスが狂っていくからね。今も予備品は持っています。合わせガラスやから、割れることはないけど…。

−顔だけじゃなくって、おしりもすっきりしました。

 ボデーの下の方に、台枠と外板を重ねているところがあるんです。どうしても腐食が発生しやすいんですよ。台枠をそのままで鉄板を重ねたので。
 工事するときね、当初はボデーも、間柱とか残して、外板も腐食してる部分だけ張り替えようと。屋根構体も、小屋根を残して大屋根だけ取り替えようと。寝屋川の車両の設計の意向はそうでした。ところが工事やりはじめたら、中途半端なところでやっていたら却って時間と金がかかる。
 だから、2次車から樋の下に側梁の桁が通っているところからそれを取ってしまおうと。そんで、屋根構体を替えよう、側出入り口柱も取り替えよう…って、結局2次車以降は新車とほとんどかわらなくなてしもた。…台枠だけしか残ってなかったね。

−というと2次車がやっぱり完成形なんですね。カタチもまとまっています。3次車以降は窓も固定式になりました。

 当時は併用軌道区間も多かった。それに、下窓を開けるときには保護棒をつけなあかんかったんですわ。この保護棒がないと定期検査のときもメンテナンスが楽になるし、見栄えもええ。

−8000系特急車みたいな、がっちり固定式、と云うわけではなく、単に開かなくしたみたいな窓ですけど、そういうわけだったんですか。

 旧品流用云う形でやっているので、最後の方は予算もなくなってきていますし、開かなくしただけと。

−いろいろ苦労してますねえ…。

 本格的に車両改造したのははじめてですからね。細かいところはATS取付とか、500形でちょっと正面をいじって、床下のぎ装はやり替えた経験はあるんですけど。500形と600形とは似ているようで別モンなんですね。
 500形の発電ブレーキはものすごい熱を出したんですよ。抵抗が少なかったんかな。途中で抵抗器を一個増やす、つけるとこない、しゃあない、連結器の下につけよう云うことで、ボックスをつけて抵抗器を無理矢理。
 運転は発電ブレーキやからしやすかったでしょうね。回生ブレーキは負荷が変動しますから。乗るとスムーズやけど、来たら熱がぎょうさん上がってくるから、東山三条で信号待ちの時に、ホームのお客さまがのけぞってはりました。それが短命の原因かな。

−500形は700形に生まれ変わりましたね。次回から700形の連載なんですよ。

 700形は、当初は傾斜のついたボデーになるはずやった。当時の大津の車両担当課長が「まっすぐするんや」と。それから700形ではじめてスカートをつけましたからね。新味を出したかったんでしょうね。
 作っている人の個性は出るんですね。作っている人の顔が見えてくるんですよ。俺の電車や、ってのを出したいんかな。(笑)
 600形もはじめはブレーキはSMEでしたけど、700形に合わせてHRDになって余計メンテはやりやすくなりましたね。空気管がSMEのときは3本、今は1本ですか。

−本社に移ってきたのは去年ですよね。

買い付けをする和田
「今は本社に来て1年。買い付けの仕事をやってます」
 今は買い付けの仕事をやってます。車両関係と、電気の通信関係など、京阪線、大津線、両方担当しています。なかなか慣れへんもんですね。とくに実績がないもんに関しては、細かい計算をしたりしてます。

 大津線におったときの最後の改造はワンマン運転するための自動放送、向こうで基本仕様を決めて、やり方も決めて、発注するのに値段は、私が本社に来てから決めました(笑)。
 某メーカーは高くて、そのうえ放送メーカーの内容変更も高いので。コンパクトフラッシュに入れればすぐに替えられると。乗って聞いてみて、大阪ら辺の自動放送と遜色ないな、とね。

非常通報装置
車内の通報装置は、なんとインターホン。
 なるべく市販品を流用して安く上げようと、車内の通報装置もインターホン(笑)。配線もモールを通したり、非常に安く上げました。壊れたら取り替えればええねん、くらいの感覚で。これはいまの技術課長の得意技ですが…。それが本社に来る前の最後の思い出ですね。

−大津線が懐かしくなることはありませんか?

 東西線に乗り入れて、ドル箱の三条−御陵が無くなったでしょ…。大津線も大変な時代になったなって思うよ。確かに施設はよくなったけどね。昼間に京津線に乗ってもお客さまがあんまり乗ってないからね…。石坂線は割と乗ってるけど。
 昔大津に居てたという縁で出させてもらいましたが、まあ懐かしいな、これからどんどん懐かしくなるのかな…、と思てます。

(8月10日、天満橋・京阪電鉄本社にて)

 20年前の寒い冬、暑い夏に冷房車を走らせるために、試行錯誤を繰り返しながら毎晩のように和田たち技術者が情熱を注ぎ込んで生まれた600形電車。安全・快適のために幾度かの改造を経ながら、今日も石山坂本線の主力として働き続けています。本社に異動した和田の精神を引き継いだ、後輩の車両係の情熱をエネルギーに、京阪電車はこれからも進化し続けます。

 次回からは700形電車の特集がはじまります。お楽しみに!


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