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| ホーム > o2trains > 700形(2) |
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京阪電車はかつてから日本初の技術を多く導入し、50種類以上にも及ぶ台車をはきこなすなど、「進取の気象」「技術の京阪」の名をほしいままにしてきました。
大津線も例外ではありません。わずか21.6kmに連続する急勾配、急曲線、路面区間…。日本屈指の厳しい線路条件を克服し、安全で快適なお出かけを約束する大津線電車こそ、小さなボディに個性と高性能を秘めているのです。 このコーナーでは、大津線で活躍する電車や施設について、やさしく、そしてちょっとマニアックに(担当者が好きだからです…)おとどけします。 |
| 第10回: 京津線 800系電車(2) | |
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バックナンバー
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| 第10回: 京津線 800系電車(2) 第9回: 京津線 800系電車(1) 第8回: 石山坂本線 700形電車(4) 第7回: 石山坂本線 700形電車(3) 第6回: 石山坂本線 700形電車(2) 第5回: 石山坂本線 700形電車(1) 第4回: 石山坂本線 600形電車(4) 第3回: 石山坂本線 600形電車(3) 第2回: 石山坂本線 600形電車(2) 第1回: 石山坂本線 600形電車(1) |
350×2=700? |
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| 前回は、600形5次車として計画された車両が、東西線開業後の車両規格決定を受け、700形として登場した経緯をお話ししました。すなわち、地下鉄東西線開業後の1500v昇圧対応車とすることに加え、600形のシステムを全体的にバージョンアップすることで、石坂線車両の新しいスタンダードを構築し、保安度の向上を図ったものでした。
高床車の主力はオールマイティな冷房車・600形20両。残る25両のうち、特に運用のネックになっていたのが車両性能上、京津線に入線できない350形11両です。701号〜704号の4両は、この350形の代替新造車として、同形の車体を流用して製作されました。ちょうど600形が300形(II)および260形の車体を流用した代替新造車であるのと同様ですが、今回は350形の歴史についてお話ししましょう。 |
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350形、11両それぞれの結末 |
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| 石山坂本線専用車・350形は、1966(昭和41)年および翌1967(昭和42)年に木造車・京阪線800形[I]の足回りを流用し、車体を新造して11両が制作された車両です。車体は既に登場していた260形(2次車以降)、300形[II]とほぼ同様のものですが、これら2形式が特急色をまとっていたのに対し、現在に至るグリーンの濃淡の一般色で登場しています。 大津線全車が2両連結運転になったのは1970(昭和45)年のことですので、350形も初期は一部の列車で単行運転をしていました。したがって351号から355号までは両運転台、356号から361号までが片運転台で登場しました。 通常、電動車には台車ごとに2つ、合計4つのモーターが装備されていますが、800形[I]譲りの350形のモーターは82kwと大出力であるかわりに2台しか装備されておらず、45kw×4台の260形よりも低出力でした。さらに、260形・300形にある発電ブレーキ(自動車のエンジンブレーキに相当)も装備されておらず、空気ブレーキ(フットブレーキに相当)のみで停まっていました。 これが車両性能上、急勾配や長い併用軌道区間がある京津線へは入線できず、京津線ほどの性能は要求されない石坂線の専用車として登場した所以です。
もちろん車両故障発生時などには、両運転台の器用さを活かし、ピンチヒッターとして連結されたでしょう。300形[II]から600形への代替新造工事の際には、片割れの300形[II]と組んで営業に出たこともあったようです。 350形も31年の生涯の中で何回か小改造を受けています。パンタグラフ化のあと、両運転台グループの352・353号は1982(昭和57)年に、354・355号は1975(昭和50)年に片側の運転台撤去工事、1983(昭和58)年には前照灯のシールドビーム化、貫通幌枠撤去、通風口の設置などです。 |
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錦織車庫の改築時は車両検査は四宮車庫で行われましたが、これら6両は係員が添乗のうえ、自力で逢坂山を越え、四宮へと回送されました。営業運転ではないものの、石坂線専用車が京津線に入ったのです。そして皮肉にも352〜355号の4両は、最期に東山の峠にも上り、九条山で解体の刻を迎えました。 |
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| また、356・357号は廃車後も80形81・82号とともに浜大津の側線に5年間留置されていましたが、2002(平成14)年、600形に牽引され錦織車庫に回送、解体されています。 357号の運転台機器は大津市歴史博物館へと寄贈され、「大津の鉄道百科展」の目玉として制作されたモックアップとともに、同館の所蔵品となっています。 |
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京阪線800形[I]=琵琶湖鉄道汽船100形! |
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| ところで、350形の種車・木造車800形[I]は主に交野線で活躍していました。この800形[I]こそは、1927(昭和2)年に「坂本線」用として登場した琵琶湖鉄道汽船100形そのものなのです。
o2stationsの南滋賀・穴太・近江神宮前の各駅の回で琵琶湖鉄道汽船の歴史についてお話ししましたが、同社の財政状況を苦しくしたのが、民家もまばらな湖西地域に高速電車タイプの車両を投入し、高規格で開通させた坂本線でした。 実際、一気に12両が落成した琵琶湖鉄道汽船の100形は会社の経営を傾けるほどに意欲的な車両でした。現在、JR四国の7000系電車・1000系気動車で用いられているようなロング・クロスシートの組み合わせ。日本車輌製の丸みを帯びた木造車体にパンタグラフ集電、米国ボールドウィン社製の台車に酷似した国産・日立M1台車をはき、颯爽と直線を駆け抜けていたのです。
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| 1929(昭和4)年、琵琶湖鉄道汽船は京阪電車に合併され、1936(昭和11)年に、京津・石山・坂本の3路線が「大津線」として括られました。特に「空気輸送」だった坂本線のテコ入れのため、もともとが別会社だった大津3線のシナジーが追求され、京津線と石山線、石山線と坂本線がそれぞれ直通運転を始めることになりました。
高速電車タイプの車両が路面電車区間に入線することはできませんが、逆は可能と云うことで、坂本線の各駅に低床車用のホームが設けられ、石山線から路面電車タイプの車両が乗り入れてきました。
1946(昭和21)年、天満橋駅構内の脱線事故で807号を失いますが、これが後に351号の運命を決することになりました。 そして800形[I]は、「木造車を淘汰」「石山坂本線の近代化」の課題に応えるため、350形に生まれ変わり、生まれ故郷の石山坂本線へと戻ってきたのです。 そうすると、358〜361号の4両は704〜701号として生まれ変わった際に、いったんは京津線の運用に就いたものの、再び石山坂本線へと里帰りしたことになります。このように、4両の700形と坂本線とは、三代にわたるちょっと感傷的な結びつきがあったのです。 |
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700形について語る(2)
「白いスカートが見えたらちょっとラッキー」
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